「ちゃんと読む」「よく考える」って、実際には、何をどうすることなんだろう?


次のふたつの文章を読んでみてください。

A
「今日、公園行く?」
「行かない」
「なんで?」
「プールあるから」

B
友だちから、今日公園に行くか聞かれたけど、プールがあるから行かないと答えた。

Aは、ふだんの会話、話し言葉です。自然に、その時思ったことを口にするだけで、意味のわかるやり取りになっています。何も難しいところはありません。
しかし、同じ話を、Bのような書き言葉に整理するのは、けっこう大変です。
内容を、
「いつ」
「だれが」
「何を」
などと区分けして、組み立て直さなければなりません。

「日本語は母語なんだから、自然にできるようになるものだ」と言う人がいます。
しかしそれは、Aのような話し言葉の場合です。
Bのような書き言葉を自由に扱えるには、文法の勉強が必要です。

文法に則って文章をたどる。
それが、「ちゃんと読む」ということなのです。

宇根豊『田んぼの生きものと農業の心』より
宇根豊『田んぼの生きものと農業の心』より
今度は、この写真の文章を読んでみてください。ある私立中学の、数年前の入試問題冒頭です。

さて、5年生の子が、この文章の理解に大変苦労しました。
「だれが」「何を」と整理していったのに、まだよく分からない。
一体なぜでしょう?
よくよく話し合ってみたら、その子は「仕事=かせぐこと」と思っていることが判明しました。
仕事と聞いて、お金をもらうところを思い浮かべたのです。
確かに、それも仕事の一面です。
でも、仕事には、もっと色々な他の面もある。
それに気付かないと、この文章が、なぜ仕事と技術を並べて説明しているのか、意味を掴むことは難しいでしょう。

「○○とは何か?」
「どうして、そうなのか?」
そういう「そもそもの問い」を、辞書を引いたり、あれこれ想像したりしながら、話し合って、よく考えていく。
そんな「哲学的な対話」も、文章の意味を掴むのに大変有効です。

「それは一体なんなのか」と、自分の言葉で話し合う。「哲学的な対話」が、理解を確かにします。


文法を使いこなし、文章を通じて哲学的対話をする。
これは、子ども達にとって魅力的な経験です。
そうした深い学びを通じて、骨太な思考力と、粘り強くて懐の深い人格が養われます。